前回は、平成8年4月に初めて野崎島を訪ねた初日、道に迷いそうになりながらもなんとかなしとげた王位(おえ)石探索行を紹介した。今回は、その翌日の話。やはり、まだ先祖代々の島人が住んでいた時代だ。
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王位(おえ)石詣でをした晩は、思っていた以上に疲れたらしい。簡単だが満ち足りた夕食の後、いつの間にか眠りに落ち、目が覚めると少し高くなった朝日が射し込んでいた。
時計の針は、7時20分。
なんだって?
一瞬にして、完全に目が覚めた。
あと20分で、船が入って来てしまうではないか。
休日であるにもかかわらず、役場の吉元さんが小値賀から、野首天主堂の鍵を持ってやって来てくれることになっている。慌ててパンを頬張り、ふとんをたたみ、身づくろいをして飛びだすと、鋭い汽笛が鳴り響いた。
駆けつけた桟橋では、昨日のオバさん二人が港の生簀網を、引き揚げようとしているところだった。
「ニイさん、網ば揚ぐるのを手伝ってくれんと。オバさんたち、力なかけん」
知らぬ顔はできない。カメラを置いて加勢する。
ロープを思い切り引っ張ると、銀色の光のかけらがいっぱい詰まった丸い網籠が、眩しい滴をしたたらせながら揚がってきた。桟橋に横たわった網の中でアジが威勢よく跳ね、30、40匹が外へこぼれでた。
「拾わんでよか、近づくと鱗が飛ぶけん」
すぐそばで再び汽笛が響き、防波堤の陰から「第3はまゆう」が姿をあらわした。乗客は一人だけかと思っていたら、数名が下船。デイバッグを背負った人が、吉元さんだった。
挨拶を交わしお礼を述べていると、今手伝ったオバさんが呼んでいる。
「これば、食べらすとよか。料理はできると。もっと、持って行けばよかけん」
20センチばかりのアジが20匹ほど。油断すると器から飛び出してしまうほどの生きのよさ。吉元さんとの打合せもそうそうに、一度公民館へ戻った。時間があれば半分で干物を作り、一部を酢で締めてなどと考えたが、実際は内臓も抜かず深皿に移し替え、そのまま冷蔵庫に入れておしまい。
吉元さんが港の前にあった新しい倉庫から、役場の小型のバンをだした。島で唯一のクルマだろう。シカに包囲されている集落では無用の長物に近いクルマでも、ワイルドパークに物資を運ぶには必需品らしい。早速乗り込んで、旧野首集落へ向かう。フェンスに設けられた扉を抜け、コンクリート舗装の道をゆっくり進む。点々と廃屋があった。それも、すっかり倒壊してしまったものが多い。
「あれは元の教員住宅で、一部はシカの研究をしてる大学の先生が使ってます」
「いつもいるんですか」
「最近、あまりきてないみたいです」
クルマはとろとろと這うように登ってゆく。崖下に目にも鮮やかなエメラルドグリーンの海。野首砂丘ビーチとでも名づけたいところだ。海上からでは気づかない美しさ。目をみはる浜が、なんと多い島だろう。
クルマが、道を覆う砂に突っ込んだ。一度バックして、海側に傾きながらゆるりゆるりと前進し、体は自ずと山側に傾く。海岸から吹き上げられた砂が、数十メートル上にまで達しているのだ。
砂の吹き溜まりを越えると、フェンスで囲まれた芝生と赤い屋根の建物があった。ワイルドパークの自然学塾村。廃校になった旧野崎分校を修復改造して作られた宿泊研修施設だ。夏休みを中心に5月から10月の半年くらい営業する予定だったが、現在では大きな団体の予約が入らない限り、夏休み期間中のみ使用可能(当時)だという。
フェンスの扉の鍵を開け庭に入った。建物の後ろにある、荒んだ感じの薄茶色い丘に違和感を覚えた。あれはなんだろう。

右手には、煉瓦で造られた野首天主堂が、静かな落ち着きをみせてたたずんでいた。日があまり高くならないうちに、天主堂に入りたい。ワイルドパークの庭を横切り、もう一回鍵を開けて外にでた。
近づくにつれ、野首天主堂は高さを増してくる。石積と疎らな木立ばかりが目立つ丘の下に立つと、世を捨てた聖者が隠棲する、ヨーロッパにでもありそうな曠野の果ての修道院にやってきたような感慨にとらわれた。
だが、正面に大きく墨書された文字は、漢字「天主堂」。棟梁は、目の前に浮かぶ中通島出身の明治の名工鉄川与助。数多くの教会を手がけた匠だが、クリスチャンではない。


ぼくらが登って行くと、天主堂正面の人影が待ち兼ねたように立ち上がった。今日は、野首の天主堂の中に入れると聞いてきたらしい。さっき下船した中にいた二人だった。研修で埼玉からきている人を、小値賀の人が連れてきたという。
天主堂は3、4年前に改修したそうで、外壁は鮮やかな赤煉瓦色だった。
吉元さんが扉を開けてくれた。


正面のステンドグラスから漏れる光に、小さな十字架がぼんやり浮き上がる。両脇には彩色されたイエスとマリアの像。
正確にいうと、この建物はもう天主堂ではない。すべての信徒が島を去った今は、ただの歴史的建造物なのだ。しかし、単なる建築物にはない、大いなる存在感があった。苦労に苦労を重ねてこの地を開いたキリシタンたちの想いが、とどまっているに違いない。
「開けましょうか」
吉元さんが、一階の窓の鎧戸を開けはじめた。
最初は、階上のステンドグラスから漏れる色彩だけだったが、みるみる様相が変わっていった。色硝子を透った光が、次々と床を染め上げていく。翳りある光が生気を取りもどしたように膨らみ、堂内はこれまでになく美しい光彩で満たされた。
壁にもたれて、荘厳な光景に見入るしかない。信者でもないのに、我知らず額づいてしまいそうだった。





「ダムを見ますか」
小値賀側から見えた剥き出しの地面も、天主堂脇の地肌も表裏一体、ダム建設中の裸地だった。来年秋には完成し、水を溜めはじめる予定だという。
将来のダムサイトに立つと、湖底になるはずの場所に、ダンプやコンクリートミキサー車、ブルドーザーなどの重機が並んでいた。集落には一台だけしかないクルマだが、人外の地では巨大なクルマが主役らしい。
自然学塾村の中は校舎に手を入れたものなので、予想通りの造りだった。寝室は2段ベッド。この4月に役場の観光係になったばかりの吉元さんと、食堂でこれからの小値賀観光について話し込んだ。観光協会ができたのも、この4月だという。


※現在の自然学塾村の様子。リフォームされて外壁はあたたかみのあるベージュ色に。
公民館に戻って昼食をとった。吉元さんは愛妻弁当で、ぼくはうどん。今朝のアジを放っておけないので冷蔵庫を開けてみると、深皿から飛び出した一匹が一番下の段に転がっていた。馴れないといいながらも、吉元さんが巧みに背切りを作ってくれた。心地よい弾力があり、噛むとねっとりとして味わい深い。骨は少々舌に障るが、噛み締めるほどに旨みがにじみでた。
13時25分着の船が入り、青年が一人降りた。島に縁の人らしい。
吉元さんは、波止場でぼくのため知合いにビールを頼んでくれた後、島を去った。
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